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#6 宇陀松山の街並み 〜地域の中心として栄えた旧城下町〜 2013年11月30日、奈良県北東部宇陀市にある宇陀松山を訪れました。奈良盆地から見ますと、東南の桜井から竜門山地を東へ超えた場所、のびやかな盆地の中に、この町は発達しました。国道370号沿いの道の駅に自動車を止めて、道の駅の前で東へ分岐する国道166号を歩き、宇陀川を挟んで対岸にある市街地へと進みました。宇陀松山地区は商家町として、2006(平成18)年に、重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
宇陀松山は、戦国時代、町の東側に築かれた宇陀松山城の城下町をその礎としています。近世から近代にかけて、この地域を治めたいくつかの領主により徐々に街並みが整えられて、宇陀市を中心とした元々の宇陀郡域一帯の政治・経済の中心として成長しました。現在でも近世初頭の町割りが残り、江戸時代から戦前ころまでに建てられた町屋が多くの保存された、歴史的な街並みを確かめることができます。 宇陀川に並行する旧街道をまずは南へ辿ります。道幅およそ4、5メートルほど道の両側に、平入格子壁の美しい町屋が連続しています。意匠はそのままに、建具を現代のものに造り替えた建物も見受けられ、歴史的な景観への配慮を感じさせます。この一帯は醸造元が立地することから、酒蔵通りの名前で紹介されています。市街地の西は宇陀川、東は山が迫っていまして、市街地は狭い平坦地に沿って南北に続いています。谷口における交通の要衝に城下町が設けられた経緯が想起されます。路地を入り、東側の山裾からは、山々に囲まれながら町屋の家並が連続する風景を穏やかに眺めることができました。
街並みの南の端まで歩いた後、再び北へ戻り、今度は国道166号よりも北のエリアへと歩を進めます。国道から北へ入ってすぐの場所にある「松山地区まちづくりセンター 千軒舎」は、台格子・虫籠窓・煙出しを備えた伝統的な町家です。薬屋や歯科医院として利用された旧内藤家住宅が2000(平成12)年に当時の大宇陀町(現在は合併のより宇陀市)に寄贈されたもので、往時はバス通りでもあった通りの交通の支障にならないよう、軒の庇の一部がカットされています。施設の愛称である「千軒舎」は、その繁華から「宇陀千軒」と呼ばれたことに因むものです。 ここからは、通りの両側に歴史を感じさせる町屋が連続して、趣のある街並みが続いていきます。大宇陀福祉会館の建物は、入母屋造り、平屋建、桟瓦葺、平入の建物で、1942(昭和17)年に松山町ほか3村が合併して旧大宇陀町が成立する前から、旧松山町の役場として、合併後も1969(昭和44)年まで利用されました。正面中央に張り出した切妻造の玄関がアクセントとなっています。その後も、開園が1729(享保14)年と、民間の薬園としては日本最古の森野旧薬園や、唐破風付きの「天寿丸」の看板が目を引く、松山地区のシンボル「大宇陀歴史文化館「薬の館」(旧細川家住宅)」など、商家として歴史を刻んだ、多くの美しい町屋造りの街並みを観察しました。道にそって水路があったり、木壁がしっとりとした風合いを見せる町屋間の路地から背後の山並みが望めたりと、機能的にも景観的にも細かい都市計画の跡が感じられました。
通りをさらに北へ進み、本町通りと呼ばれる東西の通りを西へ入り、宇陀恵毘須神社の前を北へ折れて進みますと、宇陀川へ抜ける部分に、枡形のある高麗門式の門があるのが目に留まりました。松山西口関門(国史跡)、地元では黒門と通称されるこの門は、城下町への入口に約400年前に建設された由緒を持ちます。こうした中世から近世にかけての遺構が残ることは、宇陀松山の街並みに一層の深みを与えているように思えました。黒門を確認した後は、これまで進んできたメインストリート(「上町通り」と呼ばれます)の一筋西に並行する「下町通り」を辿ってその街並みを一瞥し、道の駅へ戻り、散策を終えました。 宇陀松山の街並みは、近世以降の城下町としての素地を随所に残しながら、高度経済成長期前までの伝統的な地域における中心集落の街並みが重層的に展開する、いわば「町場の博物館」のよう場所であるように思います。またひとつ、畿内において重要な位置を占め続けてきた大和の凄みに出会えた訪問となりました。 |
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