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りょうもうWalker
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#2 足利・橋物語 〜足利市内、渡良瀬川に架かる12の橋〜 後編 渡良瀬川の流れは、多くの橋を架けさせながら、足利市の大地を颯爽と駆け抜けていきます。空の色や、人々の想い、季節の移ろいや大地の記憶などを融けませた流れは、とびきりの輝きを見せているようにも思います。葉鹿橋から始まり、鹿島橋、緑橋、渡良瀬橋、中橋、田中橋と旅を続けた流れは、岩井山の丘陵にぶつかって、その南を大きく湾曲しながら流れていきます。 ●岩井橋(いわいばし)
岩井橋は、渡良瀬川の本流に架かる橋ではありません。しかも、上の写真をよくご覧いただければお分かりになるかもしれませんが、川の上にすら架かる橋ではありません。実は、この橋は洪水時に川の流れを分流させるために掘削された空堀(分水路)に架けられているのです。ですから、「川の上に架かっていない」という表現は正確ではないことになりますね。岩井山のふもとの岩井地区と、渡良瀬川北岸とを結ぶ橋は簡素なつくりですが、車両も通行できます。1967(昭和42)年に完成した岩井分水路内は、「渡良瀬ウォーターパーク」として整備されています。 ●福寿大橋(ふくじゅおおはし)
福に寿と、いかにもめでたそうな名前のこの橋は、福富町と寿町とを連絡する橋という意味からの命名です。足利市の渡良瀬川に架かる橋の中では新しい橋でして、1994(平成6)年に完成しています。前述の渡良瀬ウォーターパークをまず跨ぎ、さらに渡良瀬川を越えて架けられているため、橋長は429メートルと、長い部類に入ります。市街地の東側の便利な通行路として、通行量の多い橋です。直進すると国道293号線につながるため、宇都宮方面から足利の市街地を経ずに、渡良瀬川を越えることができるメリットは絶大であるように思います。 この橋ができるまでは、旧市街地から山辺地区(東武足利市駅南の国道293号線沿線一帯の地域)の新市街地に出るためには田中橋を利用することが多く、同橋は現在以上にすさまじい渋滞の慢性化に悩まされていました。福寿大橋の完成は、そうした渋滞の緩和に大きく寄与したと思います。 橋の北詰は、市街地に接しながらも落ち着いた雰囲気の住宅街です。一方の南側は、工業団地や流通団地となっていまして、産業系の車両の通行の多い地域となっています。 ●福猿橋(ふくさるばし)
福の字が使われる橋が続きます。こちらは、福富町と猿田町とを結ぶ橋、という意味合いがあります。最初の橋は、1947(昭和22)年に完成していたが、足利の他の橋と同じく、戦後のカスリーン台風などの被害を受け何度か改修がされてきた歴史があるようで、現在の橋は1970(昭和45)年に完成しています。銀色に輝く美しいトラス橋で、道路は川崎橋のたもとを経て、館林市方面へとつながる重要なルート上に架けられています。 渡良瀬川は、市街地を通過して、このあたりまで来ると、両岸に草原を従えながら、よりゆったりとした、穏やかな流れへと変わっていきます。市街地付近では間近に見えた足尾山地の山なみも、かなり遠くになって、一面の平らな平野の只中を流れるようになっています。上の写真は夕刻迫る時間帯に撮影しましたが、夕日をとても美しく眺めることができました。朝霧につつまれながら迎える朝日の渡良瀬川も、さぞや素晴らしいものなのだろうな、とも思えてきます。北詰に、「利根川まで31.2キロメートル」の表示。川がゆったりと流れている理由が分かるような気もいたしました。 渡良瀬川は、両岸の穏やかな田園地帯を実に雄大に流れていきます。山辺地域が都市化の波に洗われたのとは対照的に、両毛地域最大の人口を抱える足利市にあって、このあたりは広大な、本当に広大な、水田の広がる地域です。こういった茫漠とした平野もまた、渡良瀬川の賜物です。渡良瀬川は、有史以降も何度か流路を変えていたようで、上野国と下野国の境界が渡良瀬川を基本としながらも、この地域ではさらに南の矢場川の流路をとっているのも、かつての渡良瀬川が現在の矢場川のルートを流れていたためだと言われています。その矢場川が渡良瀬川の流れに合流する地点に向かって、足利市の市域も伸びていきます。 ●川崎橋(かわさきばし)
川崎橋は、1980(昭和55)年に完成したという、足利市の渡良瀬川に架かる橋の中では比較的新しい橋です。県道太田佐野線の一部をなす橋で、ブルーの橋体が一直線に川を横断する姿が、田園地帯の中にあって、実に鮮やかなアクセントになっているように思えます。県道太田佐野線は、日光例幣使街道のルートをほぼ踏襲した道路で、実際に、この地域で街道は渡良瀬川を渡河していたようです。例幣使街道は、現在の太田市の中心市街地となっている太田宿を通過し、県道に沿うように足利市福居町となっている八木宿を経て、この橋周辺の地域(梁田宿)へと至りました。現在は群馬県の民謡としての印象が強い「八木節」ですが、その発祥はこの八木宿であるのだそうです。 川崎橋あたりまできますと、河川敷が本当に広々としていまして、川もゆったりとした流れを呈するようになります。橋上からは視界が開け、太田市の金山、上州の赤城山、足利市北部の丘陵、日光連山や男体山などを一望できました。空気が澄んでいれば、筑波山や、もしかしたら富士山まで見通すことができるのかもしれません。橋の下には、足利市のゴルフ練習場があり、この日も多くの人々が軽快なスイングを見せていました。 ●渡良瀬川大橋(わたらせがわおおはし)
渡良瀬川大橋と聞いて、おそらく多くの方が「そんな橋あったの?」という疑問を持つのではないでしょうか。しかし、国道50号線が渡良瀬川を渡る橋だ、と分かれば、たちどころに、「ああ、あの橋ね」ということになると思います。幹線道路が通過する橋ということで、「橋」というイメージとなかなか結びつかないのかもしれませんね。それほどまでに、幹線道路と一体化したイメージでとらえられることの多い橋であるのだと思います。 国道50号線は、前橋市と水戸市とを結ぶ、北関東における東西の一大幹線交通軸として、交通量の多い道路です。特に、小山市から桐生市にかけて、両毛地域を通過する部分はほぼ全線に渡って片側二車線の道幅が確保されている上に、主要交差点は立体交差になっています。両毛地域、ひいては関越道方面から首都圏を回避して東北方面へ進もうとする流通のルートとしての役割も果たしているようですね。 周囲は引き続き田園地帯で視界も良好、冬の天気のよいときなどは、はるか南には富士山の姿、西方には浅間山の姿をもくっきりと見通すことができます。眺められる富士山の意外な大きさは、ここが北関東であることを一瞬疑ってしまうほどです。なお、この橋は、足利市と佐野市とを分ける橋ともなっています。 ●高橋大橋(たかはしおおはし)
渡良瀬川大橋からさらに下流、県道寺岡館林線の一部として、高橋大橋が架けられています。このあたりは、北岸は佐野市、南岸は西から食い込んできた足利市の市域ですが、すぐ南は館林市の範域となっており、それら3市の生活圏が入り乱れる地域となっているようです。実際、私も長らく渡良瀬川大橋が足利市が関連する最下流の渡良瀬川の橋だと思っていたのです。橋のすぐ南には、先述しました渡良瀬川の名残を留める矢場川が流れており、橋のすぐ下流で渡良瀬川に合流します。このあたりの行政界が、渡良瀬川の流路、矢場川の流路とも微妙にずれながら蛇行しているのも、この地域における両河川の乱流の歴史を今に伝えているようです。 高橋大橋の名前は、左岸の佐野市高橋町から取られたものです。高橋町をはじめ、付近の村上町、上羽田町、下羽田町はかつては吾妻村という村でした。この吾妻村は、旧足利郡に属していました。かつての足利郡は、この吾妻村が佐野市に、旧菱村が桐生市に編入されたほかは基本的に足利市に編入されて消滅しています。 以上、渡良瀬川に架かる足利市内の12の橋をご紹介してまいりました。いずれの橋たちも、地域や生活圏とのかかわりの中から生まれ、育ち、豊かな河川景観の1つとして磨かれてきました。いずれ出現するであろう、北関東自動車道の新橋とともに、今後も、渡良瀬川のランドスケープの一部として、重要な意味を持ちつづけるのだと思います。今回、渡良瀬川の橋を上流から下流に向かって追ってみて、気づいたことがあります。一部の橋を除いて、いずれの橋からも、それぞれの上流や下流に位置する橋を見通すことができるんですね。橋たちが手に手を取り合って、渡良瀬川と共に歩んでいることを、暗に示している事実であるのかもしれませんね。 |
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