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#9 尾島を歩く 〜たおやかな町並みと田園風景〜

2005年3月28日、太田市、尾島町、新田町、藪塚本町が合併し、新しい太田市が誕生します。合併を直前に控え、新たに「太田市」となる地域について、ご紹介していこうと思います。まずは、利根川北岸のゆたかな田園風景が美しい、尾島町の地域についてです。

尾島町は、例幣使街道の宿場町であった境の町から、館林城下へと至る「世良田道」と呼ばれた脇往還と、足尾から採掘された銅の道であった銅(あかがね)街道とがクロスするエリアに発達した町場と、周辺の田園からなる地域であるといえます。石田川を越えて尾島町域に入り、石田川南岸のたおやかな大地を歩きながら、国道354号線となっているかつての世良田道沿線、尾島の中心市街地へと至ります。その町並みは、モータリゼーションの時代を迎え、ひっきりなしに往来する自動車の多さにとまどう巷となっています。商店街としては斜陽化して久しいものの、その重厚な町並み-蔵作りの町屋、格子壁のある商家などが少なくない-は、この市街地が誇った中心性がどれほどのものであったかを示しているように思われます。モダンなレンガ塀のつづく路地があったり、蔵造りの建物が並ぶ一角があったりと、その町としての凄みはさまざまな場面で感じ取ることができました。その一方で、雷電神社や哀愁寺、正光寺などの奥ゆかしい建造物もあって、町に穏やかなエッセンスを与えてくれています。在郷の中心的な都市集落として一定の基盤を保ってきた町は、時代の流れを穏やかに受け止めながらも、その輝きを随所に示す事物に彩られながら、今日を迎えているようでありました。8月、お盆になりますと、かつて津軽藩の知行地であったことが縁で始められた、「尾島ねぷた」が盛大に行われるのも、この町です。また、尾島町は、「生涯学習の町」を標榜していまして、町の南に接し、地域の講座やイベント等の拠点として活用される一大施設「尾島町生涯学習センター」が建てられています。

尾島町の表示

県道由良深谷線、石田川橋、「尾島町」の表示
(尾島町岩松、2004.11.27撮影)

石田川南岸の田園風景

石田川南岸の田園風景
(尾島町尾島、2004.11.27撮影)

尾島の町並み

尾島の町並み
(尾島町尾島、2004.11.27撮影)
格子壁のある町屋

尾島の町並み、格子壁のある町屋
(尾島町尾島、2004.11.27撮影)
レンガ壁と蔵の見える風景

レンガ壁と蔵の見える風景
(尾島町尾島、2004.11.27撮影)


尾島町生涯学習センター
(尾島町亀岡、2004.11.27撮影)

※合併後(2005.3.28以降)は、太田市岩松町、太田市尾島町、太田市亀岡町 となります。

尾島の町並みを抜けますと、多種多様な野菜を生産する、尾島町のもう1つの素顔に出会うことができます。全国的にも高い品質で知られる「やまといも」は、利根川の営力による細かい砂質土壌のまさに賜物です。その他、ねぎやブロッコリー、ホウレンソウ、ゴボウなどが盛んに作付されていまして、広大な台地上の畑地いっぱいに、緑のじゅうたんが展開し、はるかに赤城山をはじめとした山々を展望する風景は、まさに「豊かな、そしてたおやかな田園風景」そのものです。
この広大な大地の上には、このうえないほどの、さわやかな青空が広がります。太田市周辺地域における産業基盤の礎を築いた中島知久平は尾島町の出で、この大空に向かい、日々飛行機の研究に没頭し、やがて太田の町に「中島飛行機(現在の富士重工業の前身)」を設立するに至りました。

ねぎ畑の広がる風景

ねぎ畑の広がる風景
(尾島町徳川、2004.11.27撮影)

ブロッコリー畑

ブロッコリー畑です
(尾島町徳川、2004.11.27撮影)

縁切寺満徳寺資料館

縁切寺満徳寺資料館
(尾島町徳川、2004.11.27撮影)

世良田東照宮

世良田東照宮
(尾島町世良田、2004.11.23撮影)

長楽寺・蓮池

長楽寺・蓮池
(尾島町世良田、2004.11.23撮影)
長楽寺勅使門

長楽寺勅使門・紅葉
(尾島町世良田、2004.11.23撮影)

※合併後(2005.3.28以降)は、太田市徳川町、太田市世良田町 となります。

尾島町の豊かな田園を歩いていますと、「徳川」なる住所の場所があることに気がつきます。このことは、尾島町、とりわけこの徳川の付近が、徳川家にとって発祥の地として位置づけられたことと深い関係があります。間もなく役割を終える尾島町役場のホームページから引用します。

平安時代の末期に後三年の役の内乱を鎮定した八幡太郎義家は、その後東国に強力な武士団を結成し、源氏は東国にその基盤を築きました。義家の子義国は関東に下り、長子義重が新田の荘を開き新田氏の祖となりました。
 さらに義重の子義季は、本町の徳川の地を領して「徳川義季(とくがわ よしすえ)」と名のり、その後承久三年(1221年)、後鳥羽上皇の勅願と伝えられる長楽寺を世良田に創建し臨済宗開祖栄西の高弟栄朝を招いて開山しました。
 時を経て鎌倉幕府滅亡後、義重の後裔義貞の南朝方と義康の後裔足利尊氏の北朝方とが争った南北朝の抗争に、義季の後裔は義貞と運命を共にして、敗北を喫しました。
 その後、足利政権の圧迫を受けた義季の後裔、有親・親氏父子は当地を離れて流浪の旅に出、親氏は仏門に入って徳阿弥と名のった後、松平郷(豊田市松平町)に移って、松平郷主在原信重の入婿となり松平姓を名乗ったと伝えられています。親氏の後裔家康は、永禄九年(1566年)松平姓から徳川姓に復姓したことから世良田・徳川の地は徳川氏発祥の地として、将軍家の厚い庇護を受けるようになりました。


徳川家康を祭神とする世良田東照宮や、上述の長楽寺の境内を中心としたゾーンは、「尾島町歴史公園」として整備されていまして、歴史と文化を感じることのできる、緑豊かなエリアとなっています。現在東毛歴史資料館や世良田小学校となっている敷地も、かつてはこの長楽寺の境内のうちでした。また、付近には江戸期に「縁切寺」として知られた満徳寺の遺跡もあり、「縁切寺満徳寺資料館」が建設されています。歴史公園の北、国道354号線沿線もまた、尾島の町と同様、奥ゆかしい町屋が残る町場としての色彩を強く残す町並みが美しい地域です。この世良田の町並みは、多くの有力な僧を輩出した長楽寺の繁栄のなかで育まれたものであるに違いありません。

尾島町役場

尾島町役場
(尾島町粕川、2003.9.27撮影)
やまといも畑

やまといも畑
(尾島町世良田、2003.9.27撮影)

※合併後(2005.3.28以降)は、太田市粕川町 となります。

尾島町は、町全体として穏やかな田園風景につつまれると共に、風格を感じる町場や数多い歴史的遺産とに満ちたエリアであるように思います。新しい太田市のなかにあっても、そのたおやかな景観を活かしながら、より魅力的な地域としての道を歩んでいってほしいと、心より願っております。

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