#1 見沼探訪
今、「見沼区」に対し、区の名前としてふさわしくないという市民運動が盛んです。
この「見沼区」という名称の是非に関しては、多方面において盛んに議論されてきたところです。私自身は、貴重な自然などと度々報道されていたこともあり、この「見沼」に何となく好感を持ってきました。
そして、さいたま市の区名案の中で、大宮と浦和以外で実際の地名を使おうとしているくらい重視されていると目される見沼がどのようなものであるか、ずっと気になっていました。そこで、百聞は一見にしかず、実際に見沼を訪れることにしました。
11月2日、見沼田んぼを南北に、東武野田線七里駅からJR東浦和駅までを、見沼代用水東縁沿いに、見沼大橋を経由するルートによって、踏破しました。さいたま市に設置予定の行政区で言えば、見沼区予定地から、緑区予定地にかけて歩いたことになります。
七里駅は、東京近郊の私鉄駅によくあるように、既成集落の中にうずくまるようにありました。周囲に小商店街が形成されていて、土曜の昼前ということもあり、駅に向かって多くの人たちが集ってきていました。この辺りの地名は、風渡野(ふっとの)。風が渡る野原とは、いかにもこのあたりの風景にぴったりで、見沼踏破のスタート地点としてまさにふさわしい名前だと思いませんか?
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さいたま市風渡野付近(2002.11.2撮影) |
駅を出て東に進み、ほどなくして行き当たる県道を右折して南へ。さいたま市七里支所や七里小学校の横を通過するまでの道程には、武蔵野や北関東によく見られる屋敷林を伴った家々の集合の間に集合住宅が点在する集落景観が続きました。特徴的だったのは、ヒマラヤスギやハナミズキなどなどの各種樹木を栽培する畑が多く見られたことでした。盆栽や造園のさかんな地域であることをよく示している光景であると思われました。この樹木畑が点在する光景に、私は見沼大橋を渡るあたりまでの間、何度となく出会うことができました。
県道が七里中学校の西に差し掛かる手前で、見沼代用水東縁を渡ります。見沼田んぼは、西の大宮や浦和の市街地がのる台地(A)と、中央の片柳地域ののる台地(B)、そして東の綾瀬川流域までの台地(C)の間に南北に細長く食い込んだ低地です。AとBの間の低地には中央に芝川という自然川が流れています。見沼代用水はA台地の裾を流れる「西縁」と、Cの台地の縁を流れる「東縁」の2つがあります。AとBの間の低地とBとCの間の低地は見沼大橋あたりで合体し、川口市北部にかけて規模の大きい低地帯となります。
この後しばらくは、県道はこの用水にそって南南東に続いていきますが、私は県道を離れ、この見沼代用水東縁に沿って作られた歩道「緑のヘルシーロード」を歩んできました。
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見沼代用水東縁(2002.11.2撮影) |
用水のすぐ東まで集落が迫っているのですが、前述のように鬱蒼とした屋敷林や樹木畑などの緑が多いので、違和感はなかったです。水も以外に清冽な印象を受けました。右手の見沼田んぼも、A台地ふもとの樹林帯を背景に広大に広がり、樹木畑、葦原、水田、畑などに利用されていてよい眺めでした。ところどころコスモス畑となっているのがまたよいアクセントになっています。ただ、ときおりセイタカアワダチソウが繁茂していたり、大型ダンプカーが土砂を埋め立てていたり、廃棄物処理場の立地が見られたりと、一定の荒廃感も感じる場面もありましたが、しかし全体としては豊かな緑に囲まれた素晴らしい光景のように思いました。
締切橋を過ぎると、旧浦和市域(緑区予定区域)に入ります。このあたりは「見沼自然公園」として整備されており、多くの家族連れが訪れていました。
さらに南に歩いて見沼大橋へと続く道路を歩くと、芝川のつくる西側の低地も合流して見沼田んぼがさらに広大な低地となっていきます。樹木畑や普通の畑などに多く利用されて緑が目立つ一方で、このあたりの水路は灰色にくすんでおり、荒地も多く、自然景観の保全が必要な部分もまた見受けられました。また、見沼田んぼの樹林の向こう、大宮周辺のビル群が青空をバックに屹立している様子をみることができました。見沼大橋を渡り、見沼代用水西縁を渡ると、道路は一気に低地と台地の間の急崖を駆け上がり、周囲は台地上の住宅地へと変貌します。畑も点在していましたが、整然とした街路がつけられた近郊住宅地の趣です。ただ、ところどころアップダウンが激しい部分があり、台地の末端部らしい地勢を反映した土地柄を実感しました。
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見沼たんぼとさいたま新都心(2002.11.2撮影) |
JR東浦和駅は小ぢんまりとした近郊住宅地の駅という印象ですね。駅の東方に、見沼代用水の東縁と西縁とを結ぶ「見沼通船堀」があります。江戸時代に年貢米などを運ぶために作られた閘門式の水路で、この水路の管理を担当してきた鈴木家旧宅と共に国指定史跡となっています。閘門式水路としてはパナマ運河が有名ですが、パナマ運河の完成1914年よりも183年も早くこの水路は完成していたとのことです。
鈴木家旧宅にお邪魔したとき、管理をしていたご老人に思い切って区名でもめていることについての感想を聞いてみましたが、住宅地に住む新住民にとって「見沼」が馴染みがないのではないかという趣旨のお話でした。最後に、「このあたりも、政令市になって“さいたま市緑区”になってしまうのかね。緑なんて書きにくいね。」とおっしゃっていたことが印象的でした。
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見沼通船堀(2002.11.2撮影) |
東浦和駅を中心に多くの人たちが闊歩し急速に宅地化したこの地域でも、緑多きかつての風景の痕跡を随所に感じることができました。昔からこの地域に住んできた旧住民にとっては、新しい区名がどのようなものになるかということ以上に、戦後の急速な都市化がこの地域の景観や社会を大きく変えてきたことに対するもどかしさと、原風景への憧憬の方がより強いのかもしれませんね。ご老人は、ただ静かに、庭に堆積した落ち葉を丁寧に掃き集めていらっしゃいました。
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