第十五段 伏見・水を歩く
伏見は、かつて「伏水」とも書かれました。地中深く伏流していた水が湧き出ずる場所というニュアンスを含むものでしょうか。淀川(宇治川)の水運により栄えた歴史もあり、伏見の名前は水をイメージさせます。伏見はまた、灘と名実ともに並び称される酒造地域でもあります。現代の伏見は京都市内の行政区でも最大の人口を擁する(約29万人;政令市の行政区としても横浜市の港北・青葉両区に次ぐ3番目の人口規模とのこと)住宅地域としての顔が代表的であるように感じられます。しかしながら、水運や酒造によって栄えてきた「水の都・伏見」としての表情もまた、市街地の中に随所に垣間見ることのできるエリアともなっているようです。
東福寺から東山の雰囲気を感じさせる住宅地域を南へ向かいながら、細い路地を縫うように進んでいきますと、朱塗りの鮮やかな鳥居が目に入ってきました。いざなわれた先は、伏見稲荷大社の境内地でした。八島が池のほとりを過ぎ、緑濃い参道の石段をのぼって、千本鳥居へ。朱色が目に焼きつくくらい、たくさんの鳥居が並んでいまして、その数に全国の稲荷神社を束ねるこの大社への信仰の深さを感じます。鳥居のひとつひとつには、その鳥居を寄進した個人や会社の名前が刻まれていまして、近畿近隣のみならず、全国各地の地名が認められることも、そのことを示しています。鳥居のトンネルを抜けた先には、奥社参拝所。一般には奥の院と呼ばれます。背後にそびえる稲荷山三が峰をお参りする場所です。はじめて伏見稲荷大社を訪れた2005年12月には、稲荷山へも登りまして、いわゆる「お山めぐり」を実践しました。山麓から近い順に、三ノ峰、二ノ峰、一ノ峰と並ぶ稲荷山には、三ノ峰と二ノ峰の中程に間の峰、そして三ノ峰の北方に荒神ヶ峰が連なっていまして、それらを結ぶ参道にもまた、数千もの朱の鳥居が建ち並んでいました。峰々に奉納された「お塚」を巡拝し、地域の安寧をお祈りいたしました。今回は伏見、そして宇治へのフィールドワークを後に控えておりましたので、奥の院での参拝の後は本殿へと進みました。秀吉が寄進したという壮麗な楼門を拝観、門前町としての雰囲気が濃厚な街道沿いを概観しながら、JR稲荷駅より電車に乗車、桃山駅にて下車、伏見の市街地へと歩を進めます。
伏見稲荷・千本鳥居
(伏見区深草、2006.8.22撮影) |
伏見稲荷大社
(伏見区深草、2006.8.22撮影) |
御香宮神社・表門
(伏見区御香宮門前町、2006.8.22撮影) |
御香宮神社境内・御香水
(伏見区御香宮門前町、2006.8.22撮影) |
桃山御陵から降りてくる道を西へ。この通りは旧伏見城の大手門の通りであったため大手筋と呼ばれているようでした。国道を横断しますと、御香宮(ごこうのみや)神社は目の前です。立派な常夜燈を前にして建つ表門は神社の三門というよりは、どこか武骨な印象を受ける建造物です。それもそのはずで、表門は水戸藩祖・徳川頼房の寄進によるものであり、旧伏見桃山城の大手門を移築したものであると伝えられているのだそうです。伏見の町は秀吉が築城したものをその端緒とする、伏見桃山城の城下町をその基礎としています。京都市伏見区のホームページの記述には、都市・伏見の誕生について以下のように解説しています。
戦国時代を生き天下統一をとげた豊臣秀吉はその晩年に伏見城を築城しました。伏見は京都・大坂・奈良・近江の中継地にあたり,さらに,木津川・宇治川・桂川・鴨川の流れ込む,水路,陸路ともに交通の要所でした。築城に際して,まず,文禄3年(1594)建築資材を運ぶため伏見港を開き,巨椋池と宇治川を分離させるための大規模な工事をおこないました。そして,太閤堤,槙島堤,と呼ばれる堤防を築き,宇治や奈良などを結ぶ街道としました。また,淀城を破棄,文禄4年(1595)には聚楽第も破棄,天下の中心ともいえる一大拠点となりました。
五間社流造・檜皮葺の壮麗な御香宮本殿を参拝し、傍らに湧き出る御香水(ごこうすい)をいただきます。環境省による名水100選に名を連ねるこの湧き水は、ミネラル分の少ない軟水です。「灘の酒は辛口で“男酒”、伏見の酒は甘口で“女酒”」と呼ばれているように、やわらかい口あたりの伏見の名酒を生み出す伏見の水源のひとつとなっています。設置された説明版によりますと、御香水は863(貞観4)年の9月9日に、境内から香り高い水が湧き出し、この水を飲むと病気がたちどころに癒えたという寄端から、清和天皇より「御香水」の名を賜ったものであるのだそうです。残暑の中、御香水の前には、水を汲もうと、ペットボトルやポリタンクを持った人々の長い行列ができていました。御香水のなめらかさでのどの渇きを癒してから、大手筋を西へ向かい、近鉄線の高架をくぐり、京阪線の踏切を越えて、入口のアーチにある「OTE」の文字が現代的なセンスを醸すアーケード商店街・大手筋へ。人通りも多く、活気ある商店街です。一筋折れますと昔ながらの落ち着いた雰囲気の路地も認められまして、昔と今とが絶妙にミックスされた、ヒューマンライクな表情をした町並みがたいへん印象的でした。アーケード散策中に雷雨に見舞われ、しばし足止めとなったものの、アーケードの下であったことが幸いして、びしょぬれは免れました。京都の夏の地域性を実感いたしましたね。
伏見の町の形成後に新たに割り出されたことから「新町通」と名づけられたという路地を南へ入り、伏見の町で時々出会える湧き水のうちのひとつ「白菊水」の前を過ぎ、龍馬通りを南へ下りますと、かの寺田屋へ至ります。
大手筋商店街
(伏見区銀座町一丁目付近、2006.8.22撮影) |
白菊水付近の酒蔵景観
(伏見区上油掛町、2006.8.22撮影) |
白菊水
(伏見区上油掛町、2006.8.22撮影) |
町屋とマンションが見える景観
(伏見区上油掛町付近、2006.8.22撮影) |
黄桜・カッパカントリー前
(伏見区塩屋町、2006.8.22撮影) |
壕川(宇治川派流)の景観
(伏見区東柳町、2006.8.22撮影) |
江戸期には水運の中心地として、京と大坂とを結ぶ位置にある伏見はたいへんに繁栄しました。寺田屋の南を東西に流れる運河は「宇治川派流」と呼ばれ、1594(文禄3)年に伏見城築城に伴う木材等の運搬のために建設された内陸河川港であるとのことです。運河は宇治川と、伏見城の外濠であった壕川をと連絡しています。港の中心は現在の京橋付近で、ここを中心に多くの問屋、宿屋、酒蔵が軒を連ねていました。往時を偲ばせる穏やかな蔵の並ぶ景観はたいへん落ち着いた印象でした。大坂から淀川を伝って上ってくる三十石船など大小の船で賑わった伏見は、水運で栄えた他の地域が歩んだ道と同じように、近代以降は鉄道等の陸上交通の発達とともに水上交通を中心とした都市機能は衰微し、やがて途絶えていきます。しかしながら、伏見は近世以来からの酒造業の成長などに伴って都市基盤を維持し続けます。月桂冠大倉記念館周辺は、そんな伏見の酒どころとしての風情を濃厚に感じさせるエリアのひとつです。京都市内でも屈指の規模を誇るという旧大倉家本宅(1828[文政11]年建造)の町屋をはじめ、1919(大正8)年から1993(平成5)年まで使用された月桂冠旧本社など、たおやかな町屋や酒蔵の景観が展開しています。この一角に限らず、伏見の町を歩いていますと随所に酒蔵や町屋が残されているのを観ることができます。
伏見は1929(昭和4)年に市制を敷き伏見市となるものの、その市制の付帯条件に「京都市との合併」があり(伏見区ホームページの記述による)、程なくして京都市に編入(1931年)されます。戦後高度経済成長期以降は関西大都市圏における良好な住宅都市として成長を続けていまして、中高層のマンションなどもまた多く立地しています。そうした中にあっても、近世からの歴史を感じさせる建造物郡が市街地に穏やかに残り、酒どころを示す湧き水やかつての城下町・水運の要衝としての基盤を残す運河や堀などが豊かに存在する伏見は、大手筋の活気とあいまって、現代と歴史とが自然に融合した地域であるように感じられました。酒蔵と壕川(宇治川派流)の景観を眺めた後、伝統的な歓楽街である中書島を経て、京阪宇治線に乗車、宇治の町を目指しました。
月桂冠旧本社
(伏見区本材木町、2006.8.22撮影) |
旧大倉家本宅
(伏見区本材木町、2006.8.22撮影) |
第十六段へと続きます。
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